「M&Aのことを、従業員にいつ話せばいいのか」
「話した途端に、辞められてしまわないか」
「買い手は本当に、今の条件でみんなを雇ってくれるのか」
会社や事業を売ると決めた経営者が、最後まで悩むのが従業員のことです。
価格の交渉はいずれまとまります。しかし人の問題は、一度こじれると取り返しがつきません。M&Aの後に事業がうまくいかなくなる原因の多くは、価格ではなく「人が離れたこと」にあります。
この記事では、売り手の経営者の立場から、従業員に伝えるタイミングと順番、そして雇用を守るために契約でできることを解説します。当社自身が事業を譲渡した経験もあわせてお伝えします。
まず押さえたい前提:M&Aで従業員はどうなるか
伝え方を考える前に、法律上の扱いを簡単に確認しておきます。
- 株式譲渡:会社そのものは変わらないため、雇用契約・勤続年数・有給休暇はそのまま引き継がれます
- 事業譲渡:従業員は買い手の会社へ「転籍」します。転籍には従業員一人ひとりの同意が必要です(民法625条1項)
- M&Aを理由とした解雇:「経営者が変わったから」はそれ自体では解雇の理由になりません(労働契約法16条)
つまり、株式譲渡では雇用はそのまま続き、事業譲渡では「従業員が同意してくれるかどうか」が取引の成否を左右します。どちらの手法でも、従業員の納得がなければ事業の価値は保てません。
法律上の扱いの詳細は、M&Aによる従業員の承継のポイント①|雇用はどうなる・解雇はできるのかで弁護士が解説しています。
原則:正式に決まるまでは伝えない
検討段階や交渉中に情報が漏れると、次のようなことが起こります。
- 不安から、優秀な人ほど先に辞めてしまう
- 取引先に伝わり、取引の見直しを言い出される
- 噂が広がり、現場が落ち着かなくなる
そして交渉が破談になった場合、社内には不信感だけが残ります。
そのため、正式な契約が固まるまでは、ごく限られた関係者だけで進めるのが原則です。仲介会社やFA、税理士など、社外の関係者とも秘密保持契約を結んだうえで進めます。
段階ごとの「誰に・いつ」の目安
M&Aの進み方に沿って整理すると、次のようになります。
| 段階 | 従業員への伝え方 |
|---|---|
| 相談・買い手探し | 伝えない。経営者と、ごく一部の社外の専門家だけで進める |
| 買い手との面談・基本合意 | 原則として伝えない。現場を見てもらう必要がある場合は、見学の名目を工夫する |
| 買い手による調査(デューデリジェンス) | 資料の準備に必要な、ごく一部の幹部にだけ伝えることがある。その場合は口外しない約束を取る |
| 最終契約の直前・直後 | キーパーソンに個別に伝える |
| クロージング(引き渡し)前後 | 全従業員に説明する。続けて買い手との顔合わせ |
どの段階で誰に伝えるかは、会社の規模や業種、キーパーソンの存在によって変わります。事前に支援者と相談して決めておきましょう。
伝える順番を設計する
一斉メールで通知するのは、最も避けたい伝え方です。おすすめは次の順番です。
- キーパーソン(幹部・現場の要)に個別に:この人たちが動揺すると全体が崩れます。経緯と今後を、経営者が直接、誠実に伝えます
- 全従業員へ説明:経営者自身の言葉で伝えます。書面を配るだけで終わらせないことが大切です
- 買い手との顔合わせ:早い段階で新しい経営者の人柄が見えると、不安は大きく減ります
伝えるべき3つのこと
従業員が知りたいことは、突き詰めると次の3つです。
- 自分の仕事と給料はどうなるのか(雇用と条件)
- なぜ売るのか(納得できる理由。「見捨てられた」と感じさせないこと)
- 新しい経営者は誰か(信頼できる相手か)
この3つに誠実に答えられるかどうかで、その後の定着率が変わります。特に「なぜ売るのか」は、後継者がいない、会社を次の成長段階に進めたい、といった理由を、経営者自身の言葉で伝えてください。
雇用条件は、契約で具体的に取りに行く
「買い手はきっと、今のスタッフを大事にしてくれるだろう」という期待だけでは、従業員は守れません。売り手として、次の点を交渉と契約で具体的にしておきます。
- 引き継ぐ従業員の範囲:事業譲渡では、誰を引き継ぐのかを契約に定めます
- 労働条件の維持:給与・役職・勤務地などを、現状維持とするのかどうか
- 勤続年数・有給休暇・退職金の扱い:事業譲渡では自動では引き継がれないため、通算するのか、転籍時に精算するのかを書面に明記します
- 一定期間の雇用維持:最終契約書に、一定期間は雇用を維持することを買い手の約束事項として定めることもあります
どこまで盛り込めるかは買い手との交渉次第です。ただ、何も求めなければ何も約束されません。
実体験:買い手が条件を変えてきたとき
当社代表(中小企業診断士)は、銀座でネイルサロンを買収する一方、当社が運営していたネイルサロンを事業譲渡で譲渡した経験もあります。
このとき最も重視したのは、従業員の雇用を維持することでした。譲渡条件の交渉では、買い手に対して、既存の雇用条件を維持したうえでスタッフを引き継いでもらうよう求めました。
ところが、契約が成立し、実際の引き継ぎが始まる段階になって、買い手側が当初の話とは異なる条件を提示してきました。その条件では従業員が移籍に応じないという判断になり、当社側で該当スタッフの転職支援を行うことになりました。
この経験からお伝えできるのは、次の2点です。
- 従業員の処遇は、交渉で具体的に取りに行くことができる
- それでも、引き継ぎの段階で買い手が条件を変えるリスクは現実に起こり得る
だからこそ、条件は口約束にせず書面に残すこと、そして「もし条件が守られなかったら、誰が従業員の側に立つのか」を、売る前に考えておくことが大切です。
業種別の進め方は、ネイルサロン売却の進め方|事業譲渡で従業員の雇用を守るにはでも詳しく紹介しています。
よくある質問
Q. 従業員が反対したら、M&Aはできませんか?
株式譲渡は株主の判断で成立するため、法的には従業員の同意は必要ありません。ただし、大量に離職が起きれば事業の価値そのものが失われます。「法的に可能か」と「実際にうまくいくか」は別の問題だとお考えください。
Q. 事業譲渡で、転籍を断る従業員がいたらどうなりますか?
本人が同意しなければ転籍はせず、売り手の会社との雇用関係が続きます。事業を譲渡した後に、その従業員が従事できる仕事が残るかどうかも含めて、早めに検討しておく必要があります。
Q. 取引先には、いつ伝えればよいですか?
従業員と同じく、正式に決まってから伝えるのが原則です。ただし、取引先との契約に、経営者や株主が変わったときの取り決め(通知や承諾が必要など)がある場合は、その手続きに沿って進めます。契約書の確認は、交渉の早い段階で行っておきましょう。
Q. 情報が漏れてしまったら、どうすればよいですか?
否定や曖昧な説明を重ねると、不信感が大きくなります。支援者と相談のうえ、伝えられる範囲で早めに経営者自身が説明するのが基本です。
まとめ
- 正式に決まるまでは伝えないのが原則。社外の関係者とも秘密保持を徹底する
- 伝える順番は、キーパーソン → 全従業員 → 買い手との顔合わせ
- 伝えるべきは「仕事と給料」「なぜ売るのか」「新しい経営者は誰か」の3つ
- 雇用条件は期待に頼らず、交渉と契約で具体的に取りに行く
会社を譲るということは、事業だけでなく、そこで働く人の人生を引き継いでもらうことでもあります。
当社では、自ら事業の買収と譲渡を経験した中小企業診断士が、売り手の立場に立ってM&Aを支援しています。従業員への伝え方や譲渡条件の考え方について、お気軽にご相談ください。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。個別の事案については、労働法の専門家を含めた確認をおすすめします。
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ネイルサロンを譲渡する際に従業員の雇用をどう守るかは、ネイルサロン売却の進め方|事業譲渡で従業員の雇用を守るにはもあわせてご覧ください。
買い手の立場で、買収後の統合(PMI)の進め方を知りたい方は、M&A後の失敗はここで起きる|PMIでつまずく5つのパターンもあわせてご覧ください。
M&A全体の流れを売り手・買い手の両面から知りたい方は、中小企業M&Aとは?売り手・買い手それぞれの進め方を解説もあわせてご覧ください。
執筆・監修
中小企業診断士/株式会社ステラコンサルティング 代表取締役
『個人でできるスモールM&A実践録―銀座のネイルサロンを買収した中小企業診断士』著者。M&A・事業承継・経営改善の実務支援を行う。
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